映画の素晴らしさ

トップページ > 「監督」とはどのような立場なのか

「監督」とはどのような立場なのか

映画の制作にはさまざまな人が関わっています。スクリーンを通じて目にできる出演者だけでは、その作品は成り立たないのです。見えているもの、聴こえている音すべてが、その作品で、それを作るためにはさまざまな人が関わってきたのです。

その作品が「映像」である限り、かならず「カメラ」で収録されています。カメラは全自動で動くものから人が手に持つものまでさまざまなものがあります。作品のシーン、期待する映像効果によって使い分けることは当たり前でしょう。また、音声が収録されていれば必ず「マイク」が用いられています。映像を収録したその場で音声を収録したのか、それてもアフレコとして後から音声を収録したのか、それもその作品の作り方によります。

「方法」は沢山あるのです。選択肢は山ほどあり、それは「工夫」次第では無限に広がっているのです。それがどのようなことであれ、スタンダードな手法であれ、誰も考え及ばないような突飛なものであれ、「それを決める人」がその作品には必要です。「みんなで相談して決める」という作り方ももしかするとあるのかもしれませんが、だいたいはひとりの代表者が責任を持って決めています。

それが「監督」です。

映画において出演者に並んでスポットライトを浴びることが多い「監督」という人は、映画本編には登場しないことが多いでしょう。ですが、その映画本編をすべて責任持って管理している人であり、制作の中で生じるさまざまな選択肢をすべて決定した人であり、ある意味その作品がそこに存在している「理由」、「創る」という行為に全身全霊を傾けた人、演者に対してもスタッフに対してもすべての責任を負い、制作を進行させ、完成させた人物としてそこにいる代表者が監督なのです。

ですから演者よりもある意味では、その作品に精通していて、監督が思い描いた世界がその作品の中には広がっているはずなのです。それは並の制作力ではありません。自分のイメージした世界を実際に作品として再現するために、スタッフや演者の労力が必要なのですが、限られた予算のなかでそれを実現するためには収録の瞬間、制作の瞬間それぞれは「クリティカル」でなければいけません。関わるすべての人の時間をその作品のために先、定められた予算を投じ、イメージしているクオリティに達するものにまとめ上げることは素人ではとてもできることではありません。収録した映像に踊られるのではなくて、期待した映像を収録するのは豊富な経験と想像力が必要なのです。

そのような「作品の代表者」としての「監督」に、これまであまり目を向けなかった人もいるかもしれません。ですが、映画に対して考えを深めれば深めるほど、その存在は無視できるものではないということがわかるでしょう。作品を理解しようとすればするほど、監督が何を考えてそれを作ったのか、どのような意図があってそのシーンがあるのか、思索にふけることができます。

それも映画というひとつの芸術作品の楽しみ方のひとつでもあります。ひとつの作品をただ見て終わるのではなく、深く楽しもうとすることで、さまざまな角度からその作品を見つめることができるのではないでしょうか。

↑ PAGE TOP