映画の素晴らしさ

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映画ファンでなくても見たい時がある

映画はとても深いものです。特定の作品、特定の監督にずっとファンがついていたり、その作品、そのシリーズが放つものが人に受け入れられたり、出演している人が支持されてヒットしたり、さまざまです。

映画を観るために特別な知識は必要ありません。その作品のバックボーンや、取り上げられている事象の背景を深く知るという楽しみ方ももちろんできますし、何も知らず、その場に挑んでただ観て楽しむという方法もあります。どのように楽しもうと人の自由です。映画の評論家や映画通の人がいくら「これはこういうものだ」と規定したとしても、それは強制されるものではないのです。映画を観るときというものは、「自分とスクリーン」という余人を交えない関係が成立しています。いくら大規模な劇場で観たとても、満員状態であったとしても、いざ作品が始まればそれは自分と映画だけの自由な時間ということになります。何かを楽しむということのために誰かに規制されたり、規定されたりするようなことはナンセンスであり、それを押し付けようとする「自称映画通」の人は、実は凝り固まった映画ファンなのです。「こういうものだ」と考えるのはその人の自由ですし、どのように捉えてもいいのですが、それを人に押し付けてはいけないということなのです。

映画は万人に開かれたものです。誰でも映画館へ足を運べば映画を楽しむことができます。また、映画が収録されたソフトを手にすれば、誰でもその作品をいつでも楽しむことができます。映画は人に楽しんでもらうために作られたものです。エンターテイメントや芸術は常に開かれていて、それに興味がある人、楽しみたい人を巻き込んで虜にしてしまうものなのです。映画という芸術の特性として、誰でも楽しめ、かつ作りこまれた世界観は深く掘り下げるだけの価値を持ち、通りすがりの一過性の観客から、その作品の原作までも知っている「通」の人まで同時に楽しませることができるということです。

映画館に毎週通っているディープな映画ファンは、「映画」という芸術が好きなわけです。2時間あまりスクリーンで展開するその空気が、その文化が好きなのです。あるいは特定の監督の作品であればすべて観たいというような「深い」考えをもった人たちです。ですが、そうでなくてもシアターに足を運ぶことは可能です。特定の俳優、特定の女優が出ているからという理由だけで映画を観てもいいのです。極端なはなし、ストーリーや内容などは全然わからないけれど、それを楽しみたいということであっても構わないわけです。どのような人に対してもその作品は間口を開いていて、どのような人に対しても同じ映像を展開します。それでもさまざまな角度から楽しむことができるのです。「音」を楽しみ、風景を楽しみ、あるいはストーリーを楽しみ、出演者に魅了される。どのような楽しみ方でもいいわけです。

大衆の娯楽として成立している「映画」は人を選びません。私たちが作品を選ぶことはあったとしても、映画は私たちを選ばないのです。だから「専門的でわからないかもしれない」と感じたとしても、とにかく「観てみる」ということが大切です。誰もその楽しみ方を否定する人はいないのです。

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