映画の素晴らしさ

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単館上映の映画とは

すべての映画が全国的なプロモーションを展開し、何万人もの人が鑑賞するようなものであるというわけではありません。映画の形も自由であり、小規模、低予算で作られるものも存在します。

それらの映画はディープな映画ファン向けに作られたもので、テレビやラジオ、雑誌などで大々的にプロモーションされるようなものではないのです。確かに映画のクオリティは予算に関わるところが大きいでしょう。演技力があり、魅力のある俳優は出演料も高いものです。大規模なスペクタクルを再現しようとすれば、さまざまな演出や技巧が必要になります。現在ではコンピューターグラフィックスを用いた表現なども当たり前になっています。それらをすべてクオリティの高いものにしようとすれば、おのずと制作にかかる予算は膨大なものになるのです。それでも夜の「監督」たちは、そのようにして制作した映画がきっと多くの人に見てもらえることを信じて、自分がイメージした世界をスクリーンに再現しようとするのです。それは究極の「創作」であり、誰も止められないことです。制作会社の予算が尽きても、自費を投じてもそれを再現しようとした監督もいたほどです。

映画は「監督」のパーソナリティが大いに反映されるものでもあります。その監督が「必要だ」と思ったものがあればそれは用いられることになります。それは世俗でのトレンドなどは無視された、純粋に作品のためになることです。映画の制作には時間がかかります。その時のトレンドを反映したとしても、それが一時的な流行であった場合時が過ぎれば「ナンセンス」になってしまうのです。公開が三年後かもしれない、四年後かもしれないという状態では、そのときに流行っていることだけを込めるのは危険な行為です。公開された最新の映画で用いられていることが「ナンセンス」であれば、それは一気に駄作になってしまうからです。それほど、映画に込めるちょっとしたことなどに神経を使う必要があるということです。

そのような緻密な制作、監督個人の孤独な戦いは、さまざまなレベルで行われるものですが、「映画は監督個人のもの」という言葉にふさわしいような映画も沢山あります。それは大規模な映画スタジオなどで制作されたものではなく、未来の超大作を生み出す監督が自分のために、そして溢れるイマジネーションを再現したいために創る映画です。有名な俳優は出ていない、そして知っている人も少ないという状態でも、それは「創作された映像作品」です。芸術は自由であり、まさに「自由」という言葉がふさわしいような作品が沢山あるのです。それらの作品も、映画館で上映されていたりするのです。

単館上映されている映画は得てしてそのようなものが多いということになります。映画を深く愛していて、さまざまな作品をどんなレベルであっても観てみたいという深い映画ファンが観るようなものです。それらの作品は、単館であるからといってクオリティが低いわけではないのです。「誰も知らない」、「知られる術がない」というだけです。誰も知らなくても、有名な人が出演していなくても、十分深く楽しめる作品は沢山あるのです。限られた機材と限られた予算でどう創るか、そのような勝負を繰り返した作品です。

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