映画の素晴らしさ

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映画評論に騙されない

映画は芸術です。そして、芸術には「評論」がつきものです。芸術をより人に理解しやいようなカタチで紹介すること、それが「評論家」の仕事です。

芸術はときには余人が計り知れない深いところまで突き進むことがあります。それは一見しただけではとても理解できないような表現技法であったり、一瞬違和感を覚える表現であったりするかもしれません。そのような「理解できない」ということを一般の私たちにわかりやすく解説するために、「評論家」という人が存在しています。それが「生業」として成立するほど、世の中にはさまざまな芸術が溢れていて、私たちが生きている間に触れることができるのはその一部なのでしょう。だからこそ、その「道」のオーソリティが必要とされているのです。

世の中にあるすべての芸術をリストアップしてみると、とても追いつかないほどの量があるでしょう。そして、それらは日々増えているのです。私たちはそれらの作品をすべて実際に楽しむことは、物理的にできないでしょう。芸術にはさまざまなものがあり、さまざまな表現技法があり、ある特定のものを好む人だけに作られたものや、対して誰でも楽しめるように作られたものまで、さまざまなのです。

芸術のカタチにしても沢山あるのです。絵画、演劇、音楽、造形、さまざまな芸術が世の中には存在し、それぞれが日々増殖しているのです。それらはその道に深く通じた人が日々リストアップし、深く鑑賞していくだけで時間がなくなってしまうほど、溢れています。それは私たちの「想像力」、「イマジネーション」の証でもあります。私たちはさまざまな創作物で世の中を覆い尽くすことができるほど、さまざまな想像を頭のなかに秘め、それを人が接するカタチに「創造」することができるのです。

だからそれらを常にトレースし、最新のものから古い物まで、理解できるオーソリティの存在が不可欠です。どのような経緯で、どのような系統で、その作品が存在していて、何が新しいのか、何が画期的なのか、その道がわかる人が求められて当然なのです。

ですが、一方で芸術の楽しみ方はそれに触れる人の「自由」でもあります。評論家が「良い」といえばそれが「良い」のか、評論家が「駄作だ」といえばそれが駄作になるのか、それは実際の「受け手」である自分にとってはある意味どうでも良いことなのです。「このシーンはあの作品のオマージュだ」と言われても、その作品を知らなければどうでもいいことです。時に評論家は「どうでもいい」と思うことをさも「してやったり」と語るわけです。

ただ、人によってはその評論が「なるほど」と感じるものであったり、「それであれば観ない」という判断を下す材料になったりするのですから怖いものです。つまり、数多くある芸術を楽しむためのガイドとして、その評論家のコメントを参考にしても、しなくても、それは本当に自由なのです。ただ、そのコメントは、その評論家は求められているから存在しているのだということです。その芸術がそこにあるから成立する「評論」という仕事は、人が何かを創りだすことをやめないかぎりなくならない仕事なのかもしれません。どのようなものを期待して、どのようなものを動機としてその作品に接するのかは人によります。ですから、評論家のコメントは一意見として留めてもいいと思うのです。

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